毎年7月30日31日の一泊二日で「真宗サマーキャンプ」と銘打ってお寺でのお泊まり会を30年以上続けてきましたが、昨年一昨年とコロナ禍により開催できませんでした。参加してくれる子どもたちは地域の子どもたちです。保育所を開設してからは卒園児がたくさん参加してくれて同窓会的な役割も果たしています。30年以上続けていると、今では始めた当時に参加してくれた子のお子さんが親子二代にわたって参加するということも起こってきました。長く続けることってそういうことなんだなと実感しています。今年はなんとか3年ぶりに開催したいと思っています。幼い時から参加してくれている子が大きくなり、小さな子の面倒を見てくれている姿を見ると成長の姿に嬉しくなります。
もうすぐ新年度が始まると保育所の年長さんの食育体験がスタートします。子どもたちは事前にお米ができるまでを学習して、お米作りの食育体験を実践します。本当に最初から始めるのなら種籾をまいて発芽させて苗を育てるところからですが、そこは難しいのでパスして早苗になったものを田植えするところからスタートします。なんでもそうですが種から生長させるのは大変です。日当たりや水やりの加減などちょっとした条件で上手く芽が出ないこともあります。「よろこび」の種をまくとは、その種が生長したときに「よろこび」を与えるものにならなければなりません。最初は「よろこび」の種だと思ったのに結果は「めいわく」の花が咲くこともあるということを自覚しなければいけません。良かれと思って行う事も実は誰かにとっては迷惑な事もあります。せっせと「よろこび」の種をまいても、実は「めいわく」の種という事も充分考えられます。そう考えると「よろこび」の種をまくことは、とっても大切なことではあるけれど大変難しいことでもあります。わたしがこれはみんなの「よろこび」になると思って種をまいたとします。そしてまわりの全ての人が「よろこび」を味わうことができたならこんなに素晴らしいことはありませんが、私の考え方や行動は、まわりの全ての人にとって「よろこび」となる行動なのだろうか?正しいのだろうか?と振り返ることが必要です。簡単に「よろこび」の種をまこうとすることも、実は自己中心的な独りよがりの行為ではないだろうかと確認しなければならないと思います。良かれと思ってしたことが迷惑だということはよくある話です。独りよがりじゃないかなと振り返りながらも、私に出来ることでまわりの人に「よろこび」を感じてもらえることは、大事なことであり大切なことです。
法蔵菩薩の四十八願の第二十願に『植諸徳本の願』(諸々の功徳の本を植える)があります。「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。」お前に種まきは難しいだろう。苗なら大丈夫か?本当はよろこびの種をまいて、みんなが笑顔になれるようになればいいけれど、どこまでも自己中心的な発想で、まわりの意見を聴くこともできないお前だから種ではなく苗を植えよう。諸々の功徳をそなえた苗を植えよう。苗なら育てられるだろう? しかし、苗さえも枯らしてしまう私です。
なんまんだぶ
今月のことばについて
「今月のことば」の挿絵とタイトルは、株式会社探究社および株式会社法蔵館で発行している
「ほのぼのカレンダー」から引用させていただいております。