2017年11月

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 毎年春になると洞爺湖町財田にある徳浄寺さんの副住職さんに保育所へおいでいただき、年長の子どもたちにお米ができるまでの過程を教えていただいています。実は徳浄寺の副住職さんは、地域の農家さんが離農された後の休耕地を預かって稲作もされています。忙しいお寺の法務の合間をぬって美味しい北海道の財田米を作っておられます。報恩講の夜に行っているくじ引きでは財田米の新米を持って来ていただいています。生産者の顔が見えるお米って安心して食べられますよね。身近にそういう素晴らしい方がいらっしゃるので、ひとつ先生になっていただきお米ができるまでの過程を教えていただこう。稲作体験もさせていただこうということで、5月には田植え体験。泥んこになりながら田んぼに足を取られながらも一生懸命苗を植えます。大きく育ってねと願いながら田植えをします。その後は財田まで毎月生長を確認に行きます。ちょっとした遠足気分です。そして9月にはいよいよ稲刈りです。これも鎌で手作業で稲刈りをします。刈り取った稲は保育所へ持ち帰り洋服ハンガーを使ったはぜで天日乾燥させた後、脱穀、籾摺り、精米、そして炊飯、最後には、おにぎりを作ってみんなでいただくところまでして、稲作食育体験を完了します。自分の植えた一本の稲が、たくさんの穂をつけてお米になっていくその過程を実際に体験し、それまでおにぎりが食べたいと思えば、お家の人がすぐに作ってくれて簡単に食べる事が出来ていたけれども、おにぎりを食べるまでにどれだけの時間と多くの人の手がかかっていたのかと感じてくれればいいなと思っています。
 また、私たちはお米の他にも毎日色々なものを口にしています。野菜だったり、お肉だったり、魚だったり。私は今までにどれだけのいのちを奪い、食べて来ただろうか。想像がつきませんが多くの殺生をして私は生きながらえてきていることは確かです。現代社会はいのちが見えにくい世の中になってきています。焼肉が食べたいと思えばスーパーへ行きパック詰めされているお肉を、お金を払いさえすれば簡単に手に入れる事が出来ます。パック詰めをされた牛肉が、牧場で「モォーウ」と泣いていた大きな牛とは繋がらないんであります。イクラ一粒一粒が鮭になると思いながら食べてもいません。タラコの一腹の中にいったいどれだけの卵が入っているかなんて考えもしていません。多くのいのちをいただきながら、多くのいのちに支えられながら生きている私、それらがなければ生きていけない私であります。見えないものに支えられていると気付かされます。しかし、もっと深く見つめる事ができれば、見えないものに支えられているだけではなく、見なければならないものが見えていない私でしたと、何も見えていなかったお粗末な私が見えてきます。お粗末なものの見方、捉え方しかできない私でした。周りの物を粗末にすることは私自身の生き方を粗末にしてることに他ならない。さてさて、お茶碗のお米一粒一粒を大切にしていたかなぁ?!
     なんまんだぶ
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