2014年10月

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 最近世界的に気候の変動が激しい。8月には広島で局地的豪雨による土石流が発生し多くの方が犠牲になられた。まだ寝ていらっしゃったであろう時間帯に土石流の発生でした。いきなり襲われたといった状態だったのでは無いでしょうか。また先日は岐阜県と長野県にまたがる御嶽山が前触れも無く突然噴火をした。こちらでも多くの方が亡くなられた。秋の休日に紅葉を観ようと山登りをされていたはずなのに突然の噴火であります。思いもしない出来事だった事でしょう。噴火をした時の写真や動画がテレビのニュースなどに映し出されていましたけれど、いきなり噴煙が上がり見る見るうちに火山灰や噴石が襲って来ていました。無事だった方は命からがら逃げこられたという状況だったのでしょう。思いもしない事件に巻き込まれたという感じではないでしょうか。
 私たちは日々の暮らしの中でいろいろと計画を立てます。計画に基づく様々な予定を組んで今日の私の行動になります。この予定の根本には私はしばらくは生きているという事が大前提になっています。それは今まで生きてきた経験を基に、年令や体調や生活環境などいろいろな要因をかんがみて判断し、おそらく明日も生きているだろう。予定を進めても構わないだろうという事で日暮ししています。生きている事の延長線上の終点として死があり、その死の時期については未定であり、年令や体調、生活環境などの様々な要因を総合的に判断して自分なりに予測をする。しかし、その予測が自分にとってお受け入れ難いものであったならば拒絶する。そうこうしているうちに死ぬに死に切れない人生を送らなければならなくなっている方がおられませんかね。ならば終点を先延ばしにすればいいと。いつまで先延ばしにしますか。そうですね百歳ですか。いやいや元気に運動が出来て何でも美味しく食べ物をいただく事が出来る間は生きていたいとか。長生きはしても病を患って寝たきりで生き続けるのは嫌だとか。健康でいたい、長生きがしたいと勝手な事を言い、病にかかれば健康をうらやみ愚痴を言う。生き抜いた先の終点が死と考えるからおかしな事になるのであります。生きているという事を私の所有物と考えるからおかしくなるんです。いのちが私の持ち物だと考えるからおかしくなるのであります。今日こうして私が生きている事は私が目を覚ましたからではありません。私のいのちもいつ消えるかもしれない草木の先のひとしずくの露のようなはかないいのちではあるけれど今日もまた生きるというご縁が整った中で露の如きいのちをいただいたんであります。しかし、ひとたび死の縁が整ったならばいとも簡単にいのち終わっていかなければならないいのちをいただきながら生かされているのがこの私であります。そのいのちの有り様に出遇わせてくださるの仏様であり、仏法であります。その教えが仏さまの教えの仏教なんです。死んでからの話じゃないんです。今聞かなきゃ。私が聴かなきゃ。  なんまんだぶ
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