2012年3月

12.03.jpgのサムネイル画像

 

 眼を閉じていると光りがさえぎられ網膜に画像を映し出すことは出来ません。私の目は光が当たることで色がわかり物を認識、識別することが出来るようになっています。光があたっていなければ何も見えないのであります。月のあかりの無い真っ暗闇の状態の中では、どこに何があるか、自分がどこに居るのか、自分のたっている場所がどんな場所なのかわからないでしょう。私はこれまでの人生の中で、夜眠れなくて困ったということがありません。人の話を聞くと目がさえて眠れないとか、寝むるタイミングを逃して眠れなかったとかよくききます。それがひどくなると睡眠導入剤が必要になったりされるのでしょう。私の特技になるかもしれません。いつでもどこでも眠れます。ベッドに横になった瞬間にいびきをかきはじめます。私の連れ合いはその事を良く知っているのでいきなりいびきをかいてもビックリしませんが、旅先で友人と同室になり「さぁ、やすもうか」と言いやすむと5秒後にはいびきをかいています。おかげで翌朝には「お前嘘だろ、冗談だろ」と言われます。眠れなくてどうしようかと悩んだことが無いのであります。眠っている間というのは、脳が休んでいる状態、体力を回復するために身体を休めている状態を言うのでありましょう。眠っている時は何も考えることもせず、夢など見ながら、ゆったりしています。眠りから起された寝ぼけ眼の状態では、はっきりと物事を見る事も、認識することも出来ない状態であります。寝起きの良さ悪さを考えてみる時、寝起きの悪い人の特徴は、目を開けることが出来ない。いつまでも行動に移れない。頭をぱっと切り替えてすっきり状態に出来ないなどなどあるでしょう。逆に寝起きのいい人はというと、目がさめた状況、認識がすばやくできる。次の行動に容易に移れる。ここまでは物理的な目の見え方、眠りと目覚めについて書きましたが、日常生活の中で私たちは本当に目を覚まして生活しているだろうか、言葉を換えると物事の本質に気付いていますかという事を今月の法語はきかれているのでありましょう。浄土真宗では全く行わない事ですが、世間では厄年といわれる風習があります。厄払いとはどのような事でしょうか。厄払いの方法はどのようにするのが一番効果があるのでしょうか。なぜなぜと疑問をもつとどうしてそんな風習が出来たんだろうとか、なぜ行うんだろうとか、具体的にどのような効果がどうして現れるのかと気になります。ほんとに払えるんだろうか。そんな事を考えるのは私だけでしょうか。どうして厄払いをするのですかとたずねると、多くの方は気休めとか、慣習、伝統だからと言われます。本質を見ることをせず、なぜそうなのか納得もしないままに取りあえず良いと言われる事はやっておくにこした事は無い。はっきりとしないもの、あやふやな理由に振り回されているにもかかわらず従っておく、良くはわからないけれども悪い事では無いから従っておく。また、人間という生き物は自分の思うようにならない事があれば原因を外に求めようとします。私という存在そのものが原因をつくり結果を招いているという事実に目を背けているのでありましょう。だから、私に降り積もった厄を払うのでしょう。誰かなんとかしての世界です。本当は体力が落ちて来たのに摂生をしていないから体調を壊すにもかかわらず厄のせいにする。   

    なんまんだぶ

ホームへ
寺の概要
今月のことば
ブログ ブツブツ相念
お問合わせ・連絡

アーカイブ

年・月別アーカイブ