寒かった北海道の冬も終わって生命の息吹を感じる春がやってきました。三月の末から日本列島を縦
断して桜前線が北上しますね。桜も種類によって咲き方や咲く時期が異なっています。私にとっての印
象的な桜はというと、通っていた小学校の入学式の時期に満開から散り初める校庭の桜ですね。その情
景が今でもはっきりと浮かんできます。子供心に「きれいだな」と感じたことを思い出します。あの時
の桜はまだあるんだろうか。しばらく訪れたこともない。今度故郷に帰った時には小学校へも行ってみ
よう。小学生の頃は将来についていろんな夢を持っていた。お医者さんになりたいとか、パイロットに
なりたいとかあったものです。
実現の可能性など全く考えもせずただただ夢を思い描いていました。そして成長するに従って夢と現
実の間で様々な判断を加え少しずつ夢の修正が行われ自分自身の人生を自分自身によって選び取ってき
たなと思い返されます。私が成長して将来設計をしていく中で、親はどうしていたかなと思うと完全に
見守ってくれていました。子どもの意志を尊重し完全にお任せでした。いま親として子どもがどのよう
な道にすすもうがそれは子ども自身の人生であり誰も変わることの出来ない事なのだから私も見守って
いきたいと思っていますが、自分で人生を選択していける力は親の責任としてきちんと培ってあげなけ
ればならないと考えています。その結果どのような人生を選ぼうが認めてあげたいと思います。しかし
なかなか黙って見守るというのも難しいものですね。ついつい自分の思いが出てきてしまうものです。
私の価値観を押し付けてしまいます。私の価値観、私のものさし、ありのままを認めないのが私の価
値観、ものさしですね。大きい小さいを判断する時どこかに大きさの基準が定められます。私は背が高
いですか低いですかと尋ねると皆さんはなんとお答えになりますか。ご自身の身長を基準としてお答え
になるんでしょうか。そうすれば高い低いの判断ができます。若いか高齢か、お金を持っているか持っ
ていないか、優しいか優しくないか、善人か悪人かなど、私たちの日暮しは全て私の価値観ものさしで
決められています。価値観ものさしは人によってみな違います。しかし、私の価値観が私には一番ピ
タッとくるんです。自分の都合が全て反影されている訳ですから。だからほかの人の価値観ものさしは
あまりピタッとはこないんであります。「お前の言っている事はわかるが、それは違うぞ」「お前はま
だわからないんだ」「言う事をききなさい」こんな言葉が出てくるんですね。お浄土には青い花は青い
光を放ち、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を白い花は白い光を放っているそうです。赤い花は
決して青い光を放たない赤い花は赤いままに青い花は青いままにそれぞれがそのままで光り輝いてい
る。私は私のままで光り輝けば良いんですね。私があなたにならなくても良いんですね。私が私のま
までゆるされている世界。ありがたいです。 なんまんだぶ