2020年11月

きづかなくても大いなる親のひざの上

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 体の部位を使った慣用句はたくさんあります。身体の上の部分からいくと、頭、顔、目、鼻、口などなど、ありとあらゆる部位を使った慣用句やことわざが見つかります。膝を使った慣用句やことわざもたくさんあります。膝が笑う、膝を交えるなど、調べていたら「七重の膝を八重に折る」ということわざが出てきました。勉強になりました。知らなかった事がわかるのは楽しい事です。しかし、ほとんどのことわざは辞書をひいて覚えたものではなく、日常で自然と身についたもの。親が使っていた表現をまねして使い始める事が、ほとんどではないでしょうか。昔、大相撲の貴乃花が大関に昇進した時「不撓不屈」といい、横綱昇進の時には「不惜身命」という四字熟語を使ったことを記憶しています。聞いた事もありませんでした。ことわざ、慣用句、四字熟語など、知らない言葉っていっぱいあります。その多さは国語辞典の厚みからしても容易に想像できます。わたしの語彙力の無さを痛切に感じます。やはり学ぶことは大切なんですね。
 さて、『きづかなくても大いなる親のひざの上』大いなる親のひざとはどこだろうか。西遊記に出てくる孫悟空が、五行山に閉じ込められる事になる出来事。世界の端まで行って来たと思ったら、お釈迦さまの掌を出ていなかったというお話があります。自分の力で何でも出来ると思っていてもそうじゃない事がいっぱいあります。
 京都女子大学を設立された九条武子さんのうたに『いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に』とあります。子育てをしていると「反抗期」という言葉をよく聞きます。反抗期は大変だけれど大切な時期でもあります。反抗期をむかえないことの方が心配になります。子どもにしてみれば反抗しているのではなく、自分はこうしたいんだという自己を主張しているだけなんですね。自己主張ができない事、してくれない事の方が問題です。私たち人間は、日々世間や人と対立したり、ぶつかりながら生きています。大いなる親の目から見ると自己主張であっても、私は悩み苦しみのなかで、もがきながら今ここに生きていますと主張しているんです。その私を憐愍し、嘆き悲しまれている大いなる親。私がいくら「仏なんかあるものか」「仏が何を救ってくれると言うんだ」と反抗しようとも、私が信じる信じないにかかわらず、そうかそうかと反抗し続ける私をそのままに抱えてくれている。ここで大切なことは、私が反抗している身であることの自覚です。「おろか」な私の自覚です。悩み苦しみの毎日の生活の中で、不平不満の愚痴が口をついて出てくる。愚痴しか言えない私という自覚があるかどうかが問われる。周りが見えず私は間違っていない、相手が間違っているように見てしまう。様々なお陰をいただきながらでしか生きられないという自覚が問われています。しかも仏の慈悲の心は、私が気付こうが気付くまいが、常に働いてくださっています。罪の意識が深まるところに、ゆるされる喜びが大きくなってきます。愚かな私が大いなる仏の智慧に照らされていた。おおいなるみ手に抱かれて、大いなる親のひざの上にいた。
      なんまんだぶ
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