2019年10月

仏さまは いつも 私たちの心の中に

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 先日、何気なくテレビを見ていて「あの日あのとき あの番組~NHKアーカイブス~」という番組に目が止まった。約30年前に制作されたドキュメンタリー番組だった。最初に放送された当時にも見たような記憶がある。浄土真宗本願寺派の島根県の寺院の実情を取り上げた番組で、人口の減少に伴い、寺を離れて都会に移り住む住職や、住職が亡くなり跡を継ぐものがいない荒れ果てたお寺。近隣のお寺に合併され消滅するお寺などが映し出されているものだった。住職が亡くなった後も地元に暮らしているご門徒によってようやく護持されてきた本堂が合併によっていよいよ取り壊され無くなる。本堂にご安置されているご本尊をおさめる木箱を作ろうと地域の皆さんが相談をされる。話し合いの結果、合板で作られることになったが、ご本尊を遷座(せんざ:ご移動)する当日、箱は杉で作られていた。合板ではあまりに申し訳ないという事になり杉の箱になったそうである。人が去り、学校がなくなり、そして寺が消えていく。人口が減少している現代においては、寺院が消滅していくのは時代の流れなのだろう。しかし、宗教が、仏教が、浄土真宗が消滅するわけでは無い。教えは伝え続けられるはずです。伝道のスタイルを変えながら時代に合った形で教えが伝わっていくのでしょう。ここで少し考えてみたい。ご本尊をお納めする木箱が合板では申し訳ないと杉で作られたご門徒の思い。かたや美術館や博物館のガラスケースに収められ鑑賞の対象物となっている仏像。かつて多くの苦悩を抱える人々が救いを願い、拝まれていた仏様が美術品となる現代。杉の木箱に納められた人々の暮らしの中心にあった仏さまと、ガラスケースの中に鎮座する鑑賞の対象となった仏像。どちらも同じ仏さまですが、私の仏さまに対する心持ち次第で、おおいに悲しませ泣かせているのが現実でありましょう。仏さまってどんなお方でしょうか。辞典には真理に目覚めた人のこと、自ら真理をさとり、他人をさとらせ、さとりのはたらきがきわまり満ちた究極の覚者のことだとしるされています。この私をさとらせようとおはたらきくださっているのであります。私が目で見る事ができるようにお木像のお姿としての仏さまとなってくださり、その真理の教えがまことの心として私の中に届き、なるほどとうなずけたなら仏さまはいつも私たちの心の中にいらっしゃるとよろこべるんですね。それは目の前に見えている仏さまのお姿が私の心に焼きつく事ではなく、あぁそうでしたかと気付かされ、なるほどとうなずかされる末通って変わることのない心理として仏さまが私の心の中にいてくださる。ガラスケースの中に並ぶ仏像も、かつて人々が悩みを抱え、苦しみを抱えた中で、手を合わせ礼拝し救いを求める多くの人が救われてきた事だろうとは思いますが、現代の私には、ガラス越しになんと美しい姿なんだろうとしか感じられない。同じ仏像であっても鑑賞の対象物と礼拝の対象物では大きな違いがあります。仏さまとは、真実まこととなって私の心の中に届いてくださる。
     なんまんだぶ
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