2019年12月

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 生まれ育った場所、慣れ親しんだ場所「ふるさと」私の実家は周りを山に囲まれた田舎ということもあり、お墓は各家庭にそれぞれ墓所(墓地)を持っています。お墓の前に大きな銀杏の木があり毎年たくさんの銀杏が身をつけます。毎年、晩秋になると実家から、熟して落ちた銀杏をきれいにして送ってくれる。銀杏が届くと今年もあと少しになってきたなと感じます。届いた銀杏を見て故郷を思います。近年、お寺を離れることも比較的容易な環境になってきたこともあり年に一度は里帰りをしています。親も高齢にはなりましたが元気でいるので可能な限り顔を見せたいと思っています。先日いつものように銀杏が送られてきたので、連れ合いが届いたことを知らせる電話をしたらいつもよりも声がトーンが低い。聞くと入院中の病院で電話に出たらしい。電話をしなければ入院していたことにも気づくことができなかっただろう。なんとも親不孝をしているなと改めて反省します。帰りたい時に帰れない距離を感じます。ふるさとはいつでも迎えてくれる存在、受け止めてくれる存在、受け入れてくれる場所。帰る場所。子どもの頃に見慣れた田んぼや山の景色を眺めているとホッとします。来月になればお正月がやってきます。幼い頃、正月には叔父や叔母が家族でやってきていました。従姉妹がお正月を過ごして家に戻る車の中で、「もういくつ寝るとお正月」と歌っていたという笑い話をしていたことを思い出しました。まだまだたくさん寝ないとお正月はこないと笑ったという話です。おとなの感覚で言うと終わったばかりの事が次にやってくるには一年かかる。しかし、一年先であろうとお正月はまたやってくるわけですから別におかしな話ではありません。大人になる事で、世の中の常識といわれる知識を身につけて、考え方や物事の捉え方が型にはめられてくるのではないでしょうか。お正月が過ぎたばかりでもあと何日寝れば次のお正月になるのか数えればいいじゃないですか。しかし、おとなはそんなの数えても意味がないと見てはいないでしょうか。世の中の価値観、おとなの価値観というのは、私にとっての都合の良し悪しであり損得勘定です。子どもの感性は純粋にその事実を受け止め受け入れています。私も昔は持っていたんでしょうけれど、どこにその感性を置いてきたんだろうか。人は成長する段階で様々な知識や能力を身につけ、人生の荒波を乗り切っていこうとします。生まれたばかりの赤ん坊はお腹がすいたら泣いて訴え、お腹がいっぱいになれば泣き止みます。「お母さん僕が赤ん坊でお腹をすかせた時にミルクをくれなかったね。僕はいまでもその事が赦せない」という話は聞いた事がありません。しかし、おとなになるとあの事だけは絶対に忘れない。絶対に赦す事が出来ないという事も多々あるんじゃないですか。純粋な子どもこそは、不平不満ばかりの私の父であり、濁りの無い澄みきった心で何の疑いも持たない子どもこそは、いのちのふるさとですね。ふるさとがある。帰る場所があると思うだけでやすらぐな。
     なんまんだぶ
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