2022年2月

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 お寺の向かいに家庭医のクリニックがあります。具合が悪くても境内に傾斜があるので転がっていけるところです。本当に転がっていくと傷だらけにはなりますが。そんなご近所のクリニックですから日頃から色々とお世話になっています。前住職のかかりつけ医にもなっていただいておりました。在宅診療もお願いしていましたので、急な往診も度々していただきました。今から60年近く前になりますが、私の祖父は自宅でなくなりました。私は生まれて半年だったので自宅療養している記憶はありませんが兄や姉は覚えていると思います。30年ほど前には母方の祖父も自宅療養の末に亡くなっていますが現代は多くの方が病院で亡くなる時代です。自宅の亡くなりたいと思っていても看病介護してくれる家族がいなければ自宅療養はできません。しかし、最近ではコロナ禍で入院中は家族と思うように面会ができなくて、在宅診療に切り替えるという方もおられるのではないでしょうか。今後介護サポート事業が充実してくる事で、少しずつ自宅で最期をむかえるという方が増えてくると思います。2019年の11月に厚生労働省が出したポスターが話題になりました。結局そのポスターは貼られることもなくネット上で見られるだけになりました。吉本新喜劇の小籔千豊さんが病院のベッドに酸素吸入器をつけて横たわり、心電図が止まるようなデザインになっています。日頃からどのような医療やケアを受けたいか、どうして欲しいのか家族と十分に話し合っておきましょう。「人生会議」をしておきましょうと呼びかけているものです。英語ではACP(アドバンス・ケア・プランニング)といい日本では人生会議と言われています。先日「本輪西ファミリークリニックのACPについての考えるプロジェクト」企画にお誘いいただき、院長先生と私で『私にとっての「生き方」と「逝き方」』と題して対談させていただきました。日頃気づかないことに気づくことが出来て本当にいい機会を与えていただいたと感謝しています。差し迫った死のみならず死を語ることはタブーなんだということを忘れていた自分がいました。私は日常の中で死について考えることもそれを口にすることも極めて自然なことであり当たり前のことだと思っていたんですが、世の中の多くの方は、「死ぬことを考えるなんて縁起でもない」という考えなんだと改めて教えられました。「死」の捉え方受け止め方が違う方と死についてお話をしてもうまくこちらの思いを伝えることはなかなか難しいですね。やがてやってくる死を今から考えなくてもいいじゃないか。今は若くて元気なんだから考えたくない。大切な人が亡くなるということは想像したくないし考えたくもない。しかし、いざその状況に直面したらどうなるだろう。日頃から家族で「逝き方」を話し合っておけば、「生き方」が変わってきます。生きているということと死ぬということがどういう関係なのか知ることができれば、そのままに受けてめることが出来るようになります。生きてきた延長線上がゴールだとすればゴールしないでずっと走り続けていたいと思うでしょう。しかしゴールは必ずやって来ます。死んで行かなけれならない悲しみ、家族を亡くす悲しみに必死にたえなければならない時がやってきます。そのとき人は目の色が深く沈んでいくんでしょう。仏教は、あらゆる事象には原因があり、さまざまな縁が重なり結果が生まれると説きます。私の死も私が生まれたという原因に、年齢や病などが縁となり結果として私は死をむかえます。人生のマラソンのゴールとは違う葉末に宿った露のような人生を送っています。今日も露のいのちを生きながらえています。
       なんまんだぶ
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