2023年2月

春を信じて冬を生きている

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 「岡、エースをねらえ」テニスを題材にした漫画に出てくるセリフです。主人公の岡ひろみが海外の大会に出場するために飛行機に乗ろうとする時、コーチの宗方仁が亡くなりこの言葉が岡ひろみに聞こえてくる場面です。中学生の頃アニメが放送されて見始めてコミック本も買い揃え読破していました。漫画といえども色々と名言も出てきます。「冬来りなば春遠からじ」を覚えたのもこの漫画でした。今回エースをねらえについて書こうと思い調べなおしていると重大なことに気づきました。いままでこの言葉は、中国とか日本の高僧のどなたかが言われたものだろうと勝手に思っていましたが違っていたようです。実はこれはイギリスの詩人シェリーという方の詩が出典で、彼の長詩「西風に寄せる歌」の最末尾に、「If Winter comes, can Spring be far behind ?」とあるものを訳したものだそうです。 寒く冷たい冬であっても必ず暖かい春がやってくる。終わらない冬はないし、必ず春がやってくるんだと望みを持つことで冬を乗り切ることができる様になると言う事でしょう。春を信じて冬を生きるという事は、冬のあとには春がやって来るんだとただ鵜呑みに信じますということではなく、春が冬を生きることによっていよいよ春らしい輝きを増してくるのではないでしょうか。「信じて生きる」という事を考えてみる時、歎異抄第二条に「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」(この親鸞においては、ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのであるという法然上人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人に騙されて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔は致しません。なぜなら、他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、だまされたという後悔もあるでしょうが、どのような行も満足に修めることのできないわたしには、どうしても地獄以外に住み家はないからです。阿弥陀仏の本願が真実であるなら、それを説き示してくださった釈尊の教えがいつわりであるはずはありません。釈尊の教えが真実であるなら、その本願念仏のこころをあらわされた善導大師の解釈にいつわりのあるはずがありません。善導大師の解釈が真実であるなら、それによって念仏往生の道を明らかにしてくださった法然上人のお言葉がどうして嘘いつわりでありましょうか。法然上人のお言葉が真実であるなら、この親鸞が申すこともまた無意味なことではないと言えるのではないでしょうか)とあります。「信じる」ということは地獄以外に住み家はありえないわたしの煩悩具足の姿が、嘘いつわりが本当の事によってはっきりと見えてくるように、本願真実によって照らしだされる。その本願真実を信じること。親鸞聖人のおける「信じて生きる」とは、法然上人のお言葉をいただき、本願念仏のこころを聴き、念仏往生の道に生きるということ。    なんまんだぶ

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