毎年11月3日にお寺の仏教婦人会と浄心会(壮年会)合同の報恩講と1年間に亡くなられた会員の方々の追悼法要をお勤めいたします。ご講師には大学時代の友人に毎年来てもらっています。年に一度は必ずお互い元気な事を確認しあっています。この法要が終わると年間の主な法要行事はほぼ終わりとなり少しホッとした気分になれます。あっという間に一年が過ぎました。コロナ禍でいろいろな事がイレギュラー続きで余計に早く感じたのか、年齢を重ねたことで早く感じたのか、どちらもありそうです。近年、お盆とお正月の時期になると高校時代の同じクラスの仲間で作っているLINEグループが賑やかになります。私の通った高校は高校2年生の時にクラス替えがあるだけで2年間は同じ顔ぶれです。担任も基本的には変わりません。久しぶりに顔を合わせればすぐに当時に戻ります。みんなが帰省する時期になると地元に住んでいる者が、日程と場所を調整して飲み会(プチクラス会)が催されます。しかしコロナでしばらく出来ていません。来年のお正月はできるだろうか。先日、関東に住む同級生から年末少し早めに帰省すると連絡がありました。私は正月が過ぎて行ければいいかなと思ってはいますがまだわかりません。竹原高校3年2組土肥組というクラスで、みんなと出遇い、共通の体験をし、思い出を共有する仲間として続いています。高校時代に素敵な出遇いをさせていただきました。しかし、仲の良かったクラスメートも今ではすでに何人かは亡くなった者もいます。今月の法語『倶会一処(倶に一つの処で会う)』とは仏説阿弥陀経の中に出てくるお言葉ですが、高校でいい友達と出会ったような事を言っているわけではありません。お盆やお彼岸に墓地に行くと倶会一処と刻まれたお墓をよく見かけます。しかし、お墓でお骨になって一緒になるという事でもありません。そのお墓も近年行政が管理をする共同墓が建立され利用される方が非常に多くなっているように感じます。私のいるお寺の納骨堂にご先祖のお骨を安置しておられる方の中にも、維持管理の責任を相続してくれる者がいないとか、身寄りが誰もいないという理由で、市の共同墓に移される方もいらっしゃいます。「倶会一処」とは、単純に同じ処、同じ一つのお墓に入るということではなく、お浄土で会う事。死を超えた世界に出遇う事。仏様の悟りの世界、真理の世界で、また遇うということです。死にたくない死にたくないと思い続け、どうすれば死ななくていいだろうか、どうすれば長生きできるだろうかと、もがき苦しむ人生は、この世の事が全てで死んだらおしまいという人生でしょう。だから死を考えたくない、遠去けたい。見つめる事ができない。受け入れるなんてとんでもない。しかし、死なない人はいないし先に亡くなった方を偲ぶ時、また会える世界があるのならば、死を見つめる勇気というか、死を受け止める力、力強く生きていく人生を歩んでいけるんではないでしょうか。死にたくない私とは、諸行無常の中で生きているにもかかわらず、私が死ぬ存在と受け入れられないんです。真理に出遇い、気付く事が出来れば、本当の『倶会一処』の世界に出遇えるんじゃないでしょうかね。
なんまんだぶ