世界的なコロナの感染拡大で一年延期された東京2020オリンピック・パラリンピックが終わりました。緊急事態宣言下でほぼ無観客で開催されました。開催の評価はさまざまな観点から色々な意見があるだろうと思います。何が正しくて何が間違いなのか私にはわかりません。この大会のために厳しい練習を続けてきた選手の皆さんにとっては開催できたことは何よりだったのではないでしょうか。しかしその影には一年延期された事やコロナの感染で出場の機会を逃した選手もたくさんおられるんだろうと思います。いろんな意味で考えることが多かった『東京2020』ではなかったかと思います。最近「LGBTQ(性的マイノリティ)」「ダイバーシティ(多様性)」「インクルージョン(包括・包含)」と言った言葉をよく耳にしますが、『東京2020』はこれらがキーワードの大会ではなかったでしょうか。自身の性的指向をカミングアウトした選手もいました。パラスポーツを通じてインクルーシブ(排除しない)な社会創設をしていくという目的のパラリンピック。それらを改めて世の中に問いかけた大会という意味で、私は素晴らしい意義のある大会であったと思います。『東京2020』はすべての人にやさしい社会を提唱する大会であったと思います。先日ある研修会で「ダイバーシティ(多様性)」と「インクルージョン(包括・包含)」を「十方衆生」「摂取不捨」と訳されていました。「十方衆生」は生きとし生ける者、すべての人、みんなという事。「摂取不捨」とは誰ひとりとして見捨てない。すべての人を必ず救うという仏さまのおはたらきのことです。人はみんなそれぞれ違っている存在です。誰ひとりとして同じ人はいません。あなたはあなたでしかないんです。そんなすべての人がみんな笑顔になれる社会、「十方衆生」が「摂取不捨」の社会。金子みすゞさんは「みんな違ってみんないい」と言われ、相田みつをさんは「トマトをメロンにみせようとするからにせものになるんだよ」言われました。しかしわたしは、幸せになるために素晴らしい人になるために、自分の価値観という物差しを使って、こうありたいこうあるべきなんだと思い込み、それ以外は許されない認められなくなっていないだろうか。人が自分と違う行為をすれば認めない。許せない自分がいる。ダメだと思ってしまう。その人を否定してしまう。あなたがもう少し勉強ができるようになればご褒美を買ってあげるのに。あなたがもう少し私のいう事を聞いてくれるようになったら、私はあなたの事を誰よりも大切にしてあげるのに。と交換条件を出して駆け引きをし交渉をしながらの毎日ではありませんか。こう考えてみると多様性は知っているけど受け入れ難く、受け止める事なんかとてもじゃないが出来はしない。こうあるべきという価値観を頼りに生きなければダメな人間になってしまうくらいに思っている私も、あなたも「ダイバーシティ(多様性)」の中で生きているんですね。「インクルーシブ(排除しない)」な社会の中で包み込まれて生かされていたんですねと気づくことができるようになりたい。「十方衆生」とはこのわたし、「摂取不捨」の中にいたんですね。なんまんだぶ
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