夜眠る時はまっくらの中で眠るのが好きなのですが、最近は常夜灯をつけて寝ていたりします。まっくらで耳鳴りがするくらい静かな中で眠るのが大好きでした。いまではそんな静かな環境でなくても加齢のせいなのか耳鳴りはいつでもしています。不思議なもので意識すれば耳鳴りは気になりますが、他のことに集中している時は耳鳴りも気になりません。まっくらで静かな環境の中で眠るのが好きと書きましたが、眠れないという経験をしたことが皆無の私ですから真っ暗で耳鳴りがするぐらいの静けさの中でなくてもいとも簡単に眠りについてしまえるんです。眠れないと言われる方の苦しみは申し訳ないけれどわかりません。さて、春になりだんだんと朝日が登る時間が早くなり一日の日照時間が長くなり夜明けも早くやってきます。部屋のカーテンの隙間から入ってくる光が一筋はいるだけで部屋の中は明るくなります。カーテンを開ければ眩しいほどの光が入ってきます。目に映る景色は太陽の光が反射して認識できているもので、もし太陽の光が届いていなければ私には見ることが出来ません。この世のすべてのものが光を受けることで他に存在を知らすことが出来ます。言い換えれば光を発することができないものは、光に照らされることで他に認識してもらえる。そして、自分自身を認識することができるようになるということですね。世の中には光が当たらないと見えてこない事が沢山あります。他人の粗探しをしたり非難はするけれども、自分の事は自分の都合の良いようにしか見る事ができないとか。
親鸞聖人は正信偈の中に、
我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見
大悲無倦常照我
(われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども 大悲倦きことなくしてつねにわれを照らしたまう)
また、高僧和讃の中には、
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
ともお示しです。「光明」とは、仏さまに具わり迷いの闇を破し、真理をさとりあらわす仏・菩薩の智慧を象徴する語です。無量寿経に示された阿弥陀さまの光明の徳を親鸞聖人も浄土和讃のはじめに十二種に分かって称賛されています。無量光(量ることのできない光)無辺光(際限のない光)無碍光(なにものにもさえぎられることのない光)無対光(くらべるもののない光)炎王光(最高の輝きをもつ光)清浄光(衆生のむさぼりを除くきよらかな光)歓喜光(衆生のいかりを除きよろこびを与える光)智慧光(衆生のまどいを除き智慧を与える光)不断光(常に照らす光)難思光(おもいはかることができない光)無称光(説きつくすことができない光)超日月光(月日に超えすぐれた光)仏さまの光は、これらのようなはたらきの光ですよと言われています。ひとつひとつの意味を味わうと、仏さまが私を照らし私に届いてくださっているのであれば、私も煩悩を抱えたままであろうとも、不平不満の心が消えなくても、光り輝く人生を歩ませていただきたい。そして光いっぱいの世界とよろこぶ毎日を贈りたい。なんまんだぶ