2019年は消費税増税に伴いキャッシュレス決済が非常に話題になりました。「いつもニコニコ現金払い」なんて言葉は既に死語なのか。なんたらペイとやらホニャララペイだとかいろんなペイがいっぱいあってどれをどう使えばいいのかよく分かりません。年末京都へ行く用事が有ったので時間ができればアップルストアに行こうと思っていました。そこでスマホを新しくしてキャッシュレス決済ができるようにして来ました。なんでわざわざ京都なのかと思われるかもしれませんが、私が初めてコンピューターを手にしたのはそのリンゴのマークのついたコンピューターだったので、それ以来、早三十年近くずっとリンゴのマークです。タブレットやスマホなども全てアップル製品です。以前は札幌にもお店があったのですが数年前に閉店してしまいホームページから購入するか、本州のお店に行くしかありませんでした。お店の方にいろいろ聞きながら購入したかったので、京都へ行く機会を待っておりました。先日テレビでは今年のお年玉をキャッシュレスにする人もいるんだとか。スマホからスマホに送金すれば完了するのだそうです。これだと手渡しではなく送金ですから今年は会いに行けないからお年玉はあげられないねというのがないのだそうです。お年玉はポチ袋に入っていて直接手から手に渡すのがいい。子どもの頃ちょっとませてきて母の実家に挨拶に行かなかったらお年玉をもらえなかった。自分で挨拶に来なさいと言われ代理受取人は失敗した。ポチ袋を手に受け取った感触で中身を想像する事はたやすく出来た。薄いな、軽いな、厚いな、おっぶ厚いぞ、とひとりで一喜一憂しながら楽しんだものです。薄くても五千円札や一万円札なんか入っていると大興奮です。さぁこれであれしてこれしてといろいろ思案が始まります。でも勿体無いから貯めておこうかなとか。しかし、お年玉は一体どこへ消えてしまったんだろうと不思議に思うくらいあっという間に消えていきました。まるでシャボン玉のように私の中で、どんどん夢を膨らませ舞い上がり、そして壊れて消えていく。そうか私にとってお年玉はシャボン玉だったのかもしれない。夢まぼろしを膨らませ欲望の風にぐんぐん舞いあげられて、抑えきれなくなり弾けて、壊れて消えていく。私たちは、お年玉の額が多い少ないという事について「しあわせ」の大小だと考えがちですが、そもそもお年玉は、金額の多少に関わらず欲望そのものであって「しあわせ」といった価値を生み出すものではありません。明石家さんまさんの座右の銘は「生きてるだけで丸儲け」だそうです。人は本来何も持っていないのが、あれだこれだと手に入れる。するとまた更に欲望が生まれ執着心が生まれどんどん大きくなっていく。そんな本当の自分の姿に出遇えたならば、自身の欲望や執着に振り回されないという「しあわせ」があるという事に気づく。「しあわせ」とは、私が大きい小さいと評価する対象では無いという事です。母方の曾祖母のお年玉って毎年いろんな工夫があったな。十円玉掴み取りや、旧百円札を束にしてくれたりと、いろいろと手を掛けてくれた思い出というのは忘れませんね。さぁキャッシュレス時代のお年玉はどうすれば忘れないだろうか。まぁ、スマホの履歴を見ればわかるか?
なんまんだぶ