以前にもこの今月のカレンダーに書かせてもらったことがある話です。私が帰省している時に母親の体調が悪くなり病院に連れて行った時の事です。お酒を飲んでいた私は車の後ろ座席に座り、母を介抱しながら病院へ向かう車中で私の膝にぐったりともたれかかっている母親の姿を見た時に、親も歳を取るんだ。いつかはこの娑婆世界での別れを迎えなければんらないんだとひしひしと感じさせられました。私が幼いときの母親は元気で明るく自分のことは後回しにして、子どもためにはなんでもしてくれる親でありました。今でもそれに変わりはありませんが、あんなに元気だった親もこうして力なくうなだれて苦しんでいる姿になって行くんだと思った時、諸行無常、変わらないものは何もない世界に生きていたんだと改めて感じました。この先何年親は元気でいるだろうか。私は何年元気でいられるだろうか。人生という長い道のりを想定し、終着点を決め現在地はその道のりの中間地点とか、少しゴールに近いところかなとか、これまでの体調と相談したり、平均寿命とかに照らし合わせて見たりしながら人生設計、計画を立ているのが実情ではないだろうか。しかし、そんな計画の保証はどこにもない。過去も未来も現在から見て、過ぎ去ったところが過去であり、未だ来らずが未来である。過去も未来も現在において語られる事でしかありません。だから今どうするかをしっかりと考えなければならないのに、ついつい後回しにしているのが私の現状です。今日のこのいのちも当たり前ではないのに明日もあるだろうと勝手に思い込んでいるものだから、今日のこのいのちが、ありがたい事、有ること難い事だとはなかなか思えないのであります。「ありがとう」とは思えないのであります。この毎日が当たり前にしか思えないお粗末な毎日を送っている私です。
先日こんな話を伺いました。お母さんが何度か入退院をされていたけれども、内臓の機能も低下して、いよいよこの入院が最後になるだろうと主治医から教えられた娘さんが、大変悩まれたそうですが、本人に状況を正直に話されたそうです。お互いにこれまでのことを振り返り「ありがとう」の言葉が出てきたそうです。変わらないものはにもないという諸行無常の世界に生きていることを受容し、私の命も終わって行くという避けがたい事実を受容し、またどんなに愛しい人であっても別れていかなければならない現実を受け入れ、互いにありがとうという言葉が出てこられたのでしょう。この方は、お母さんに最後の入院になることを伝えて本当に良かったと振り返られていました。送る人も送られる人も死の受容は大切なことだと思います。あなた往く人、私ちょっとあとから往く人であります。人生は長さではありません。いかに今を輝かせて生きているかが問われているんです。迷い、悩みを抱え、もがき、苦しみながら生きているけれども、今日のこのいのち有難いいのちでありましたと、気付かさせていただける私にならせていただいた。間違いなくこの娑婆を別れて行かなければならないこの私が今日もたまたま生きながらえた。そんなことに気付きもしなかった本当の私に出会うことの難しさ、有り難さを思うと、日頃からきちんとお世話になった方々にお別れとお礼を言っておかなければいけないなと思う今日この頃です。「ありがとうございます」 なんまんだぶ
今月のことばについて
「今月のことば」の挿絵とタイトルは、株式会社探究社および株式会社法蔵館で発行している
「ほのぼのカレンダー」から引用させていただいております。