姪に二人目の子どもが生まれた。男の子だった。私の兄にとって初めての男の孫である。どうやら大変にかわいいようである。初めての孫が生まれたときもメロメロだったが。あの兄貴がである。この度生れた孫は自分が生まれた時にそっくりなのだという。実にうれしそうに教えてくれた。私は兄が生まれたときなど知りもしないのだがそっくりだろうというからそっくりなのだろう。そうかいと素っ気なく答えてしまって悪い事をしたかと今ごろ反省はしてみるもののまぁいいか。親子や兄弟、親戚というのは体形、体格など容姿はやはり良く似たものがいる。しかし、外見が似ているからといって性格など内面まで似ているかというとそんな事は無い。まわりを取り巻く人やおかれている環境などによって、ひとり一人全く違うものである。兄には兄の、私には私のそれぞれの特徴が表に出ています。それは外見だけの事ではなく考え方や、趣味、趣向だって違います。それぞれがそれぞれに違った自分を一生懸命に生きている姿から光りが放たれ光っているのですね。
阿弥陀経の中に「池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」とあります。極楽にある池には大きな車輪のような蓮の花が咲き、青い花は青い光を、黄色いは黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放つと説かれています。青い花は青い光を放ち決して赤い光は放たないのであります。青は青のままでいいのであります。赤は赤のままでいいのであります。黄色い花が今日は黄色い光よりも白い光にしたいから白い光を放とうかなとはならないのであります。この蓮の花を私に置き換えると、あなたはあなたのままであなたなのですと私のすべてを受け入れそのままに抱きとめてくれているという安心感につつまれます。決して否定されない世界の安らぎをえる事が出来ます。他と比較する事の無い世界。全てが同じである必要の無い世界。親である私はついつい思ってしまいます。どこそこの子はあんなに勉強ができるのにどうしてあなたはそんなに勉強ができないの。どうして何度言ってもわからないの。私たちの日暮しは、私の基準をもって基準に到達していないとか、基準をオーバーしているとか、私の中に消える事無く存在し続け私の都合で変化する基準によって生きていると言ってもいいでしょう。他との比較、自己都合による基準で、まわりの人や世の中を判断、比較、批判、排除、対立、または好感、賛同、連帯、溺愛などしてしまうのでありましょう。
光るとは、私が光るのではなく光りがものにあたって光が反射して輝くのであります。比較しなくてもいい、私が頑張って光り続けなくてもいい。光が届いて私が私のままで光れるのですね。私でいる事が出来るんですね。飾らなくていい世界。安らぎの世界に生かされる。ありがたいですね。真実まことの光に照らされるという事は。 なんまんだぶ
今月のことばについて
「今月のことば」の挿絵とタイトルは、株式会社探究社および株式会社法蔵館で発行している
「ほのぼのカレンダー」から引用させていただいております。