三月は「別れの季節」「旅立ちの季節」そして続いて「出遇いの季節」と言えるのでは
ないでしょうか。保育所を卒園していく子ども達も来月からは小学生になり港北保育所
以外から入学してきた新しいお友だちとの出遇い、新しい先生との出遇いなど、大きな
希望と少しの不安が入り交じった新しい旅立ちの季節をむかえます。先日、卒園式の中
で上映する思い出の映像を制作しながら保育所をはじめた事、子ども達と出遇うことが
出来た事などを思い出しながら、いろんな思いが涌いてきました。保育士が子ども達と
共に日々暮らしながらお互いを尊重し合い、共に成長し合いながら卒園を向かえました。
保護者の皆さんも子どもにそれぞれの思いや願いをかけながら大切に育てられていまし
た。子どもは願いをかけられその願いの中で育ち、成長していくのでありましょう。
さて、親にとって子どもとは、いくつになっても子どもなんですね。たまにしかしな
い実家への電話でも最後には必ず子どもの心配をしてくれます。わかっているのにいち
いち言わなくても良いだろうにと思ってしまう。それでも親は言わずにはおれないんで
すね。親の願いなのでありましょう。今になって親の願い、ご恩に少しばかり気付けた
かと思います。しかし、なかなか素直にありがとうとは言えません。すぎもとまさとの
『吾亦紅』の歌詞そのまんまです。なんともお粗末な私です。親はつねに子どもが気が
かりなのであります。正信偈の中に『煩悩障眼雖不見(煩悩に眼さえられて見えずとい
えども)大悲無倦常照我(大悲ものうきことなく常に我を照らすなり)』とあります。
無倦とは=いやになること、飽きることが全くないという事。親鸞聖人は怠り捨てるこ
ころがないと説明されています。阿弥陀さまの大悲心はひとときたりとも休む事無く常
に私におはたらきくださっているのであります。親の願いが知れてくるという事は、ど
こまでも親の言う通りにならない私でありましたという事が知れてくる事とひとつになっ
て知れてくるのであります。親のありがたさがわかるのは、どれだけ親不孝をしていた
か気付いた時にわかる世界でありましょう。しかし、親不孝をしてきた私も今では人の
親であります。こんな私が親であっていいんだろうかと恒々思ってしまいます。人間で
ある私が子を願う思うというのは、折に触れて反省する程度、こんな私を親として赦し
てくれてありがとうとその時に思い出したようについでに思うくらいのお粗末なもの。
しかし、阿弥陀さまは「大悲無倦常照我」ひとときも休む事無く常に私の迷いの姿を照
らして下さっているのであります。親の願いの中で生かされていた事に気付ける事は、
己が今までどれほど親不孝をしていた事かと気付かされる事とひとつになっていよいよ
有難くいただく事が出来るのですね。
なんまんだぶ
今月のことばについて
「今月のことば」の挿絵とタイトルは、株式会社探究社および株式会社法蔵館で発行している
「ほのぼのカレンダー」から引用させていただいております。