最近のテレビを見ていて非常に気になる事があります。食事の場面のコメントなどで「美っ味(うっまぁっ)!」とか「やばい!」と言った言葉で表現しているのが気になってしようがない。料理について美味しいとか美味しくないとかだけで表現することはいかがなものだろうと嫌悪感を感ぜずにはおれない。料理として目の前に並べられた魚にしても牛や豚にしても人間に食べられるために生きているわけでもありませんし、鳥も人間に美味しく食べてもらいたくて卵を産んでいるわけでもない。食べられる者の側になって私が食事をするということを思ったならば「美っ味!」とか「やばい!」といった言葉は少なくても出てこないのではないだろうか。以前こんな話を聞いた事がある。テレビのプロデューサーが食事の場面を撮影するときには必ず手を合わせて「いただきます」というということに拘られているというのである。そう言われると最近のドラマの食事シーンやグルメ番組の料理レポートのシーンでも確かに合掌をして「いただきます」と言っているが、手を合わせていただきますということは決して今から食事を始めますよという合図ではない。手を合わせ合掌し命をいただきますということであるはずです。命をいただきますと言いながらも「美味い」と言い「まずい」と言ってしまいます。もしかすると私の口から出てくる「いただきます」は食事を始める合図になってはいないだろうか。目の前に置かれた料理にどれだけ多くの人が関わってくださったのか、はたらいてくださったのか、どれだけ多くのいのちをいただていた事かと感じる力を身に付けたい。美味しい美味しいといただいていたその料理にも多くのいのちがあったんだと見抜けるようになりたい。尊いいのちをいただいて我が身は生きながらえているという事に気づくことは、飽食の現代には一番大切なことではないでしょうか。「多くのいのちとみなさまのおかげによりこのご馳走を恵まれました。深くご恩をよろこびありがたくいただきます」「尊いおめぐみを美味しくいただきますますご恩報謝につとめます。おかげでごちそうさまでした」これは本願寺派の食事の言葉です。毎食口に唱えていますかときかれると出来ていません。家庭で食事の時でさえ手を合わせて「いただきます」としか言わない私です。外出先で一人で食事をするときなどは周りの目が非常に気になります。合掌をしてひとりで「いただきます」という事に恥ずかしいなと思ってしまいます。多くのいのちをいただいて生きながらえているのに、恥ずかしいと思ってしまう。そんなお粗末なこころしか持ち合わせていない私そのものが、本当は恥ずかしい存在ですよね。私に見えていない陰をどれだけ感じる事ができるのか。私が気づいていなかった多くのいのちとつながりながらでしか生きていけなかった事を見る目をもたせていただく。私という存在はひとりでは成り立たない。見えていない多くの陰によって生かされていることを見る目を持ち、感じる力を得たい。
なんまんだぶ