自己のスケジュール管理というとたいそうに聞こえるが、人との待ち合わせ時刻などに遅れないようにするとか、乗り物の発車時刻に遅れないようにするとか、時間を制限された時に私は余裕を持たせないと落ち着かない性分である。急に何かあっても対応出来る様にはしておきたい方である。しかし、時間の使い方が上手かというとあまり上手な方ではないと思っている。次の行動のために時間に余裕を持たせがちにすると空いた時間を持て余してしまうことがよくある。例えば飛行機に乗ろうと思った時に空港までの交通機関や道路状況をいろいろ鑑みて順調に行けば飛行機搭乗時刻の一時間半前に到着する時間に行動を始めます。スムーズにいけば二時間近く空港で空き時間ができてしまいますが、パソコンでメールチェックとか読書、せいぜいテレビを見ているくらいです。時間がもったいないように思えるけれどギリギリの行動は不安になってどうもいやなんですね。時間を大切に使えない私です。時間を浪費しているんですね。人生を大切に生きていないということになるんでしょうかね。さてさて、大切にしなければと改めて考える日といえばお正月ですかね。今から始まるんだ、新しい「きょう」が始まるんだと感じる日はやはり元旦でしょうかね。私の大晦日から元旦といえば、いつも朝の三時四時くらいまで除夜の鐘で冷えた体を温めています。正確には私は最初の鐘をついた後はほとんど本堂にいますから冷えてはいないのですが、参詣の人波が途切れるまで鐘楼堂に居てくださる方々は体の芯まで冷えてしまいます。体の中から温めていただくのに三時頃まではかかりますよね。新しい一年の始まりは気にしますが、今日のこの「いのち」の始まりといういただき方はどうだろうか。「いのちまいにちあたらしい」という仏教讃歌があります。「いのち」を毎日新しい「いのち」として感じることができる。味わうことができるということは、「いのち」は私の中にあって、私のものであるけれども私のものではないということになりますね。今日も「いのち」をいただいた。得難い「いのち」をいただいた。今日一日を始めることができたことの凄さ、素晴らしさを私は感じながら生きていただろうか。確かに今日も生き永らえる事ができましたと言ってはいるけれども身にしみて心に響いているとはなかなか言い難いというのが本当のところです。お恥ずかしいことですが。今日のこの「いのち」生きるという縁がととのって今日も「いのち」をいただいたんでありますけれど、寝たら朝には目が覚めるもんだと思い込んで昨晩もやすみました。そして今朝は目が開いたことに感謝もすることなく時間に追われるように起き出しました。まだまだ健康でいることも当たり前、あと三年経てば子供の学校も終わり、夫婦二人で悠々自適な生活を送るんだ。と勝手に思い描く。そんな自分に何の違和感も感じない私であります。今日大晦日を迎えこの一年を振り返り、新しい年を迎えるにあたり今日一日がスタートできる不思議をよろこべる私でありたいと思いますし、毎日新しい「いのち」をいただきながら新しい今日を生かさせていただきたいと思います。
なんまんだぶ