2015年12月

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 最近でとっても嬉しかった話をご紹介します。保育所の子供達が、本輪西小学校からご招待を受け手作りのお楽しみイベントに参加してきた帰り道での話です。子どもたち同士で問答をしていたそうです。ある子が「どうしてご飯を食べる時『いただきます』と言うんですか?」と質問をしたそうです。「そうしたら答えが『それは、いのちをいただくからです」と答えたんですよ。」と、その場にいた職員が教えてくれました。私たちは毎日食事をします。食事をしなければ生きていけません。食べ物があることが当たり前と思いがちな私に、《食べ物》という物も、《食品》という物も、存在していないことを改めて気付かせて頂く言葉が「いただきます」という言葉ですね。《食べ物》ではないですね。みんな《いのち》なんですよね。尊いいのちを頂戴するから頭の頂で拝んで食べるんですよね。最近とくに私はなんて愚かな人間なんだろうと考えることがあります。口ではいのちをいただくとか、食べ物ではなく全ていのちなんだと人には言っておきながら、実際には美味しいとか不味いとか言い続けている自分自身に自己矛盾というか自己嫌悪に落ち込みそうになってしまいます。あれが食べたいこれは食べたくないと不平不満だらけの毎日です。そんな多くの生き物の命を奪いながらも殺生をするということに心の痛みなど持ちあわせていないこの私は極悪非道の極みですよね。地球上の全ての生命体の中で一番悪いやつだと言って間違いないと思います。しかし、少しだけ気持ちを軽くしてくれるのが、自己矛盾に悩み自己嫌悪を感じることができただけでもよかったと思います。食べないわけではないけれど申し訳ないと思い感謝しながら食べたほうがしっくりくる。食べずにはおれないから食べているけれども考えてみたら恐ろしいことをしているという自覚。食事の言葉ではありませんが、尊いお恵みですよね。「多くの命と皆様のおかげによりこのご馳走を恵まれました。深くご恩を喜びありがたくいただきます。」保育所に通う子ども達は毎日食事の際には『食事の言葉』を合掌して唱和します。食事とは、いのちをいただくこと。拝んで頭の上に頂戴するということをわかってくれていたんです。さて、拝むこともころっと忘れるようなこの私を如来さまが拝んでくださっていると言われます。お念仏の教えを喜ばれた浅原才市さんは「私しゃあなたに拝まれて、助かってくれと拝まれて、ご恩うれしや南無阿弥陀仏」とうたわれております。拝むことも忘れるこの私は、常にむさぼりや欲や怒りや妬みの心が絶えず消えず湧き起こっています。そんな悩み苦しみの中から救うぞ助けるぞと私に願いをかけ寄り添い続けてくださっている南無阿弥陀仏の如来さま。拝まないときも拝んでくださっている如来さま。気付かせていただきましょう。出遇わせていただきましょう。

    なんまんだぶ

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