2012年9月

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 先月の30日に生まれて初めて人間ドックに入りました。日帰りでしたが脳ドックも受けました。朝8時までに病院に行き午後2時過ぎまで水も飲まずに検査を受けてきました。やはり内視鏡検査はなかなかつらいものがありますね。私は以前半日で胃カメラと大腸カメラの両方を検査したことがありましたが、どちらかと言うと胃カメラよりも大腸カメラの方が楽な気がしました。今度は鼻からの胃カメラに挑戦してみたいと思います。しかし、自ら好んで検査したいものではありませんね。身体の隅々まで検査をして日をあらためて結果を聴きに行かなければなりません。我ながらよく人間ドックに行こうと決心したものだと思います。思い立ったのは6月の永代経が終わった頃でした。首から肩が非常に重たく凝っていたので、私の責任をきちんと果たさなければいけないと感じ、私をかわって私になってくれる人は誰もいないのだから私自身が私という人格の責任を果たさなければならないと考えて申込、検査に至りました。

 私とはいったい誰なんだろう。私を私であると決定する要素は何だろう。などという事を考え始めるとよくわからないというのが正直なところです。私には遺伝的にいう親がふたりいます。私だけに限らず全ての人には必ず生物学的に父親と母親が必ずいます。その父親と母親にも必ず間違いなく、ひとりもはずれることなくそれぞれに親がいます。どんなにさかのぼっても父親と母親のどちらかだけによって生命が発生したというかたは誰ひとりとしていません。無限につながるいのちの連鎖の中で遺伝的に引き継がれた個性、特徴といったものもあるはずです。目の色だとか、髪の毛の色、肌の色、身体的特徴などを引き継いできていますが、兄弟姉妹で全く同じものを引き継いでいれば全く同じ特徴を持ち瓜二つになるのではないでしょうか。しかし、よく似た兄弟であっても全く同じということはありません。ではもう少し観点を変えて考えてみたいと思います。私のご先祖のつながりの中で例えば五代前のおじいちゃんが別の人になっていたならば今の私は存在しないということになります。私へつながるご先祖の方々の誰ひとりとして違っていても私は成り立たないということになるのだろうか。面白いというか考えようによっては恐ろしささえ感じてしまう話です。しかし、多くのいのちのつながりの中で私という存在があることに間違いがないことではありますが、私は私以外の誰も生きることが出来ない私であります。じつに不思議です。「不思議」という言葉は思いはかることが出来ないという意味ですが、まさに私のいのちと言いながらも私が勝手に用意して使っているものではありません。

 多くのいのちがつながる中の私のいのちではありますが、この私のいのちは誰もかわることの出来ないいのちであります。なんて不思議なことなのだろう。今、私をその不思議ないのちが生きている。私といういのち、じつに不思議ないのち、多くのいのちによってつながれたいのち、私のいのちだけれども私だけのいのちではない不思議ないのち。そのいのちを今、私の中に感じることが出来た喜びに感謝したい。      

      なんまんだぶ

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