冷蔵庫の扉に何年も消されていないメッセージボードがあります。この春から高校生になる娘が小学4年生の時に書いたまま消さずに残っています。「2月9日、うちにミッキーというゴールデンレトリバーがきました」と書かれています。前の年の12月にペットショップのご門徒宅にお参りに行き、たまたまゴールデンレトリバーの話になり「今いるよ」といわれ、うちにむかえようと思いながらもかなわず、2月にお参りに行った時に、まだお店に残っていた事でうちに来る事になった犬です。6ヶ月目に入っていたので体重はすでに15キロをオーバーしていました。なんとも偶然というか、不思議な事に私の友人も同じ頃生まれたメスのゴールデンレトリバーを飼っていました。これはいいお友達になれるぞ、もしかするといい関係になれるかもと、私の勝手な思いはどんどん膨らんでいたのですが、よくよく調べてみるとなんと、二頭は姉弟(兄妹?)でした。二頭を会わせてみるとよく似ていました。毛色、しぐさ、毛のチヂレ具合などそっくりでした。なんと名前もよく似ていました。うちがミッキーで向こうはメリー。なんとなくただの偶然とは思いにくい。そんなミッキーが1月22日に亡くなりました。5歳5ヶ月でした。この『ミッキー』という名前はミッキーがうちに来る前から決まっていたものでした。2009年に亡くなった広島東洋カープのベースボールドックだったミッキーを見た時から、うちにもしも犬がやって来たならば、私と娘の間ではその名前が「ミッキー」というのは暗黙の了解となっていました。今考えるともし、ミッキーがメスだったらミッキーになっていただろうか。ミッキーはミッキーになるべくして、5ヶ月になるまでお店で待ち続けてくれていたのかなと思います。ミッキーがうちに来たとき家族みんなで「ミッキー」と呼びはじめました。最初はミッキーと呼ばれても、振り向きもしませんし返事もしません。日が経つにつれ「ミッキー」と呼ぶと振り向くようになりました。返事をするようにもなりました。「ミッキー」ということばの響きは自分の事を呼ぶ声なんだと自覚するようになってきました。ミッキーとは自分の名前であり、自分を呼ぶ声なんだ。と気付かされてくるんであります。自分を呼ぶ声で、飼い主はご飯を食べなさいと教えてくれる。散歩へ行くよと呼びかけてくれる。ミッキーと呼ぶ声は僕に何かをしてあげようという飼い主の思い、願いを伝える言葉なんだと感じとっていたのではないでしょうか。こうしてあげるよという願いを伝えるために「ミッキー」と呼ぶ。
人間が犬を飼うという行為においては自分の事を慕う犬がかわいいという人間の欲が働いていますが、これを仏様と私に置き換えたならば『南無阿弥陀仏』のお念仏は、自分一人では何も出来ない、出来たつもりになっている、闇の中で迷い続けている、自分の都合を排除出来ないお粗末な私に向かって、仏様が喚んでくださっている声でありましょう。心配で心配でしょうがない私のお粗末な心、お粗末な行動を、全てそのままに抱いて迷いから済うぞ。真実まことに目覚めさせるぞ。と願い続けに願われている仏様のおはたらきそのものがお念仏であります。お念仏が有難いとわかるのは、お粗末な私に気付く事とひとつになって、なんと申訳ない事であった事かといただけるのであります。 なんまんだぶ