プロ野球が開幕してひと月経ちました。北海道日本ハムファイターズは北広島に出来た新球場をホームグランドに戦っていますがなかなか思うような成績を残せていないですね。せっかく新しい球場をホームグランドにした事だし頑張って欲しいですね。新しく出来たエスコンフィールド北海道は野球を観戦する事はもとより、『北海道ボールパークFビレッジ』の名前の通り、観る食べる遊ぶ体験するショッピングに宿泊まで出来るスペースになっていて、とにかく楽しい場所なだけにファイターズには頑張って欲しい。強くなければ足が向かなくなってしまいます。惜しい悔しい残念な試合を減らすには、ここでタイムリーヒットを打てる代打の切り札がいてくれればと思う事があります。野球は駆け引きで流れが大きく変わる事があるだけに切り札は必要ですね。しかし代打のスペシャリストは誰にでも出来る役割ではありません。そこで私の代わりはいるかなと考えてみます。寺の住職や保育所の理事長という私の役職の代わりはすぐに探す事が出来ます。しかし、私という人格を変わる事が出来る人は私しかいません。誰も変わる事ができない私という存在。自分が自分の主人公であって代役がききません。変わりがいないのだから、自分に責任を持たなければいけないですね。輝かせるのか曇らせるのか熟成させるのか腐らせるのか。自分次第でどんな風にでもなれます。そうなってくると自分の舵取りって難しいですね。どっちの方向へ進めばいいんだろうか。今の自分の姿はどんな状態、状況だろうか。しっかりと光があたって自分の姿が見えていないと、どこをどう輝かすのか、どんな自分を歩んでいくのか。例えば人生という舞台上のどの位置に立ってスポットライトを当てれば光いっぱいに輝けるだろうか。企画・演出・主演の全てが自分という舞台。その舞台を創り上げる責任者。さだまさしさんの曲に「主人公」という曲があります。昔を懐かしく振り返り輝いていた自分に出会う。もしもあの時ああしていたならばと自身の選択を振り返る。けれども自分で選んだ道だから今の人生を悲しむつもりはないし、自分で責任を取らなければ誰も責任は取ってくれない。誰もがみな主人公なんだと歌っています。今までいくつもの取捨選択を繰り返しながら暮らしてきました。誰も変わってくれない私の人生の主人公で演出家の私は、自分を光り輝かせるためにこれまで多くの人生の選択をしてきました。光のない舞台だと私の姿は周りの人に見えないし、自分が舞台のどこに立っているのかもわかりません。光がなければ舞台でどんな主人公を演じても輝きはしません。私を照らしてくれる人生の光に常に照らされていることに、主人公であり演出家でもある私は責任を持たなければ。 なんまんだぶ
]]>「岡、エースをねらえ」テニスを題材にした漫画に出てくるセリフです。主人公の岡ひろみが海外の大会に出場するために飛行機に乗ろうとする時、コーチの宗方仁が亡くなりこの言葉が岡ひろみに聞こえてくる場面です。中学生の頃アニメが放送されて見始めてコミック本も買い揃え読破していました。漫画といえども色々と名言も出てきます。「冬来りなば春遠からじ」を覚えたのもこの漫画でした。今回エースをねらえについて書こうと思い調べなおしていると重大なことに気づきました。いままでこの言葉は、中国とか日本の高僧のどなたかが言われたものだろうと勝手に思っていましたが違っていたようです。実はこれはイギリスの詩人シェリーという方の詩が出典で、彼の長詩「西風に寄せる歌」の最末尾に、「If Winter comes, can Spring be far behind ?」とあるものを訳したものだそうです。 寒く冷たい冬であっても必ず暖かい春がやってくる。終わらない冬はないし、必ず春がやってくるんだと望みを持つことで冬を乗り切ることができる様になると言う事でしょう。春を信じて冬を生きるという事は、冬のあとには春がやって来るんだとただ鵜呑みに信じますということではなく、春が冬を生きることによっていよいよ春らしい輝きを増してくるのではないでしょうか。「信じて生きる」という事を考えてみる時、歎異抄第二条に「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」(この親鸞においては、ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのであるという法然上人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人に騙されて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔は致しません。なぜなら、他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、だまされたという後悔もあるでしょうが、どのような行も満足に修めることのできないわたしには、どうしても地獄以外に住み家はないからです。阿弥陀仏の本願が真実であるなら、それを説き示してくださった釈尊の教えがいつわりであるはずはありません。釈尊の教えが真実であるなら、その本願念仏のこころをあらわされた善導大師の解釈にいつわりのあるはずがありません。善導大師の解釈が真実であるなら、それによって念仏往生の道を明らかにしてくださった法然上人のお言葉がどうして嘘いつわりでありましょうか。法然上人のお言葉が真実であるなら、この親鸞が申すこともまた無意味なことではないと言えるのではないでしょうか)とあります。「信じる」ということは地獄以外に住み家はありえないわたしの煩悩具足の姿が、嘘いつわりが本当の事によってはっきりと見えてくるように、本願真実によって照らしだされる。その本願真実を信じること。親鸞聖人のおける「信じて生きる」とは、法然上人のお言葉をいただき、本願念仏のこころを聴き、念仏往生の道に生きるということ。 なんまんだぶ
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